暗闇が降りてきて、あたりにもう人はいなかった。
 満足な明かりもないわき道を、いつかの空からこぼれてきた雪が青白く染めている。
空はくもり空におおわれて、それのみを頼りに歩いてく。  今年は雪が少なかったね。
 顔を覗かせたコンクリートを横目でちらりと見ながら、草-そう-は急ぎ足だ。
急ぎ足なのは、心が悲鳴をあげたいほどバクバクしているからで、悲鳴をあげたいほどバクバクしているのは、春-はる-が来たから。
 まだ雪がとけきっていない公園。
「春!」
 春は薄手で寒そうなコートを翻して…前あきのその中に、草は飛び込んだ。
「帰ってきたね。帰ってきたね。今年もこの日に。」
「今年は雪が少なかったから、助かるよ。」
  ふわふわの、春の胸。…ふわふわ?
「あ。犬?かいはじめたの」
「ドグっていうんだ。カタリの娘でね。ちっこいやつで、貰い手がつかないから…」
「うん。私がかうね。ドグ、おいで」
 茶色の子犬はちっこいながら元気良く草にしっぽを振っている。
「元気だね。」
「うん。もう人並みにせいかつできるよ」
 ドグは二人の手を抜けて、雪の中ではしゃいでいる。春はそれをいとおしそうに見つめていて、それを草は見ている。
 草にとって春は大切な人だけれど、春にとっては分からない。春にとっては、『春』というひと季節を過ごすところの
お隣さんに過ぎないかもしれない。草は知らないけれど、春のうちは大変らしい。
 それでも草は好きだけど。
「草は今年、小学校を卒業したの?」
「これから、卒業するの
」 「おねえさんは、大学生だね」
「私も、中学生になるの」
 春は、おねえちゃんの話をするから、そんなときは嫌い。おねえちゃんは、春のことを知らないのに。
 草はドグを追いかけた。はしると、雪がギュムギュムなる。ドグは新しい春の芽を見つけてて、それを草に見せようとして、一生懸命すそを引っ張ってる。  つくし。
 暗くて見えにくかったけれど、それは確かに顔を出していた。
 今年一番の、春だね。
 春は毎年同じ日にやってきて、そうしてその日には、その年初めての『春』がみつかる。春は不思議な人。『春』になったら来るのではなくて、
『春』を運んでくる人だと、草は思う。  だって、春が来ると、風もやさしくなる。
 草は元から『春』が好きだったけれど、春に会ってからもっと好きになった。『冬』が一番好きだったけれど、今はもうどちらでもないと思う。
 たとえば『春』を好きになったのは、新しいいのちが生まれるから。
 『冬』になり生きていく事ができなくなった植物たちの、生まれ変わり。植物たちは、冬の間、熊のように冬眠する。
そうして新しく『春』を迎えるときに、たくわえたいのちを使って生まれ変わり、この世界をゼロからはじめる。
 この世界は植物がなくちゃ生きていけないって。でも植物も休む時間が必要で、それが『冬』。で、再生の『春』。
 それを教えてくれたのも、春…。
 草が頭をなでてやると、ドグは嬉しそうにはしゃいでいる。
 ドグには夜目がきくのかもしれない。そうでなければ、このくらいなか、まっすぐに向かってはいけない。もしかしたら、
においに誘われているのかもしれない。  ドグがむかうその先にあるのは、大きな大きな桜の木だけ。
(…でも桜に、においなんてあったらかしら?)
 春も後をついてきて、桜の樹の前で二人並んで見上げた。つぼみがたくさんついているのが見えた。
ドグはキャンキャンほえながら桜の樹をまわっている。  ゆっくり雲が晴れて、月が姿をあらわそうとしている。
「桜の、別名を知っている?」
「知らないよ」
「―――っていうんだ。」
 ザッ…
「…え?」
 草はそのとき、ザァという波の音を聞いた気がした。時同じく月が出て、目の前が明るくなるのも分かった。
あまりの光に草は思わず目をつぶった。  (…『冬』がとても好きだったのは――)
 目をつぶっていても目の前がましろく光っていた。
 何かがまき戻っていく。唐突に、草はあのときの事を思い出していた。春に出会う前の。出会ったときの。
 青い空が。風が。花びらが。草を通り抜ける。
 目の痛みがやがて引き、目を開けると、そこに今までの風景はなかった。
 月明かりの下で輝く桜の樹が目に飛び込んでくる。いままで凪いでいた風が、つぼみだったはずの花びらをさらって頬をなでる。
「草を歓迎しているんだ」
「…私がね、ここに越してきたとき、もうずっと前に越してきたときもね、こうだったね」
「うん。よくおぼえてる。」
 (…ゆき兄がやさしくしてくれていたから。)
 ここに越してくる前に、死んでしまった草の兄。大好きで、大好きだったから、思い出さないようにしていた兄。
「あのときに、春とはじめてあったんだもんね。」
 草は今まで忘れていた兄を思い出して泣いた。一筋の露が落ちて、もう泣いていなかった。
 春は何も言わず、ただ桜の樹を見つめていた。
「でも、まだつぼみだったのになぁ…」
 草も桜を見上げた。そのとき、つぼみの桜が目に映った。
「あ。ね、これ…!」
 月が、隠れる。
「雪…だ」
 雪は冷たいのに、なぜかその時は暖かく感じた。兄のように。もう、草は元気だ。
「そういえば、春。桜の別名、なんていうの?」
「…ないしょ。さがしてみてよ」
「うん。来年までに探しておくね」
 草は笑顔で答えた。

 そういえば、春というのも草がつけただけで、本当の名は知らない。