気にかかる、女の子がいた。
 彼女はクラスの転校生で、長い黒髪をまっすぐにたらして、夏だというのに薄い白い長袖のシャツを着ていた。
 形の整った顔をしていたけれど、どこか人を寄せ付けない雰囲気があり、たとえば服装のこと。たとえば無愛想なこと―
などを理由として、学年中からいわれもない噂話や、いたずらをされていた。
 けれどその双眸にうつるはまるで月夜に咆哮をあげる銀色の狼の輝き―そのほかのものを一切として断絶する、剣のような瞳。
 それなのにある時、不意に横切った廊下の隅で僕はもうひとつの瞳をたなびくカーテンの陰に認めた。
 それ以来、それがやきついてはなれない。
 その瞳が―何かを、うつしだすような気がして。


 あの人が、いなくなった。

 僕と弟は手をつないで、蝉の声がジンジンと鳴り響く帰路をたどっていた。
頭上をつきさすような暑さは、帽子を伝わって体中をかけめぐって、つないだ手は二人とも汗をかいていた。
 弟は僕より2つ年下で、まだ小学校に入ったばかりでやんちゃで小生意気なやつ。いつもだったらなんにでも興味を示して
じっとしていないのに、暑さで弱っておとなしくしていた。―それだけでも、なかったけれど。
 僕たちの家は高台になっていて。
 少し急な坂道をのぼりつめて公園をよこぎって、すぐそこにある。
 アスファルトの坂道も、靴底を焦がすかのように暑さを増していた。夏の始まりは、じめじめした空気が辺り一面に漂って、
汗でぬれた僕たちの手は、なんともいえないくらい気持ちが悪かった。それでも、僕は弟の手をぎゅっと握る。
 握る、握って、手を離して汗をぬぐってまたぎゅっと握った。
 公園に植えられた樹木が影を落として、ほんの少しの間だけ冷たさをくれた。
 弟が、突然僕の手を離して公園に駆け込んで、その木にのぼって、僕を見下ろしていった。
「おうちに、かえりたくないよ、にぃちゃん」
 逆光で、木々の枝の一本一本は不思議なほど見渡せたのに。
 弟の顔だけが、真っ黒だった。

 僕たちが二人そろって玄関の扉を開ける。
「ただいま」
 背中を震わせるひんやりとした空気が、した。返事は、なかった。人の気配もなくて、僕たちがろくな会話もなしにご飯を
食べるダイニングテーブルの上に、一枚の白い封筒が取り残されている―…
 その日僕たちの母親はいなくなった。
 傍らで静かになく泣き声が、蝉にかき消される―僕は、弟の手をぎゅっと握った。

 予感がしていた。それは、ほんの些細な事柄―たとえば家の中で洗濯物が無造作に置かれていたり。
お父さんのよれたハンカチや。気にもならないような些細なこと。
 それから少しずつお父さんと母の会話がなくなって、そうかとおもえば喧嘩をして。―だから、知っていたんだ。

   次の日もじめじめとした熱い空気が漂っていた。
 けれどそれのせいだけじゃなくて、僕の足取りは重かった。一歩歩くごとに、まるでお化けが背中にどんどん
負ぶさってきているような気分になっていく。
 弟は今日は、布団に入って出てこなかった。
 お父さんは夜遅く帰ってきて、どうしているのかわからなかった。疲れ果てて、ベッドに横たわった背中だけを僕は見つめた。
 坂道下で、ふと何かが目にとまる。ゴミ捨て場だった。
 見つめて、思い出す。何かを。
 けれど、何も浮かび上がらなかった。
 大事なことが、そのゴミ捨て場に隠されているような気がした。宝箱とも、びっくり箱ともいえないような、それでも何か。
 けれどもその気持ちを起こさせる何かが非常に億劫で、僕は再び学校へと向かう。

 放課後、ゴミだしから帰ってみると教室がざわめいていた。
 そこにいるのはクラス一体格が大きくてでかっぱなが目立つ、一番あの黒髪の少女にちょっかいをだしているやつだった。
 そして、彼女もいた。彼女は腕を男の子二人に羽交い絞めにされて、身動きをとれないでいた。そしてその4人を中心にして、円ができている。
 何かが引き裂かれる音がしていた。少女の前にはばかるでかっぱなの足元に、手で引き裂かれただろう紙くずが重なっていく。
 少女の咆哮がこだまする・BR> 「やめろ!」
 三人が意地悪く笑う。
 僕はそれが何かを知っていた。それは少女が唯一肌身離さず持っていたスケッチブックで、
彼女が転校してきた当時から、残ったただひとつのものだった。
 それが無残にも引き裂かれ、積もる。
 獣の瞳が、憎しみに変わるのを見た。
 わなにかかって動けなくなった狼が、今にも牙を剥こうとして威嚇してるのに、届かない―
 僕は群集の一番奥で、小さく丸まった。
 獣の咆哮が、世界を裂くような絶望の響きをあげても―…僕は、耳をふさいで。
 やがて、先生の怒鳴り声が聞こえてきた。
「おまえたち!!やめなさい!」

 諍いの間に入った先生が三人組を連れて、職員室へと帰っていった。僕たちのクラス担任が、先生の連絡でくることになったが、
ここから職員室は別棟になるため、時間がかかる。彼女の身にふりかかったことに関して、そういうわけで被害は大きくなってしまっていた。
 教室にいた野次馬たちは、先程まであんなにも興奮していたにもかかわらず、少女が一人取り残され、
絶望的にばらばらとなった紙の前に腰を落としても、興味を見せるしぐささえしない―薄情だが、実際に友達は一人もいないから…
 強い風が窓から入り込んで、カーテンが大きくゆれた。と同時に、紙片がぱらぱらと風になびいて飛んでくる。
 青い大気の風にさらわれた紙片が、僕のところへと導かれる。僕は廊下へと通じるドアを後ろ手で閉めて、その紙、比較的大きな部分を受け入れた。
 彼女のスケッチブック―肌身離さずに持ち歩いていたそれには―蒼と、彼女の横顔。
 生絵が鮮やかに、うなだれている彼女の横顔と窓の外に広がる空に重なる…ただ、その瞳を除いて。
その瞳は、あのときの一瞬のように、見覚えがある懐かしいものをうつしている。
 僕は目を閉じて、一瞬だけ、その中に身を投じた。
 空は、どこかその世界からくっきりと分かれて落ち着かない。再び目を開けると世界がまぶしく思えた。
 無言で彼女に近づいて。
 おもむろにばらばらとなった紙を拾い集めた。
 彼女が、一瞬だけはっとして、僕とともに紙片に手を伸ばした。
 白い手首が、鮮やかに目を引いた。
 僕たちは違和感を感じながら、浮遊感にも似た気分で空の大気の中にいた。

 教室の扉ががらりと開いて、担任の先生が姿を見せた。大変だったなぁ、とかわけのわからないことを何言かはいて、
本当は送っていってやりたいけれど、先生は仕事がたまっているから、一人で帰れるよな―と、言った。彼女はこくりとうなづいた。
 担任である彼でも、その少女のことをもてあましているのだと。
 僕は感じた。