夢。ほんの少し前のこと…けれども、ずっと遠くなったこと。
『ねぇ、どうしえそんなに遠くを見つめているの?』
 ある時、そんな問いをしたことがあった。あの坂をとおって。
『この向こうに、新しい世界がまっているからなのよ』
 一瞬だけ振り向いた顔。にっこりと笑う口ものだけが、くっきりと浮かび上がる。
 ふたたび、赤くなった空をのぞいて。
 …ねぇ、そんなに、ここがいやだったの?
 どうして、ここではいけなかったの?
―何故……また遠くを見ているの?
『…ねぇ、お母さん』
 ためらいがちに、話しかける。
『あそこに―…』

 あそこに、悲しい子がいるよ。
 そういった瞬間に僕は目を覚ました。

 目を覚ますと、見慣れない白いカーテンと、髪をひとつに縛った女の人が顔をのぞかせた。
 保険の教師。健康診断のときにあったことがあった。
「どこか痛いところはあるの?」
「いいえ…」
 本当は、しゃべるのも億劫だ。
「兄弟そろって、いったいどうしたのかしら?さぁ、いしきがはっきりしてるのならば、しゃんとしなさい」
 そういって、半ば強引に保険医は僕をベッドから引きずりおろし、隣のカーテンを静かに引き下ろした。
 真っ青な顔をして寝たきりの、弟がそこにいた。
「―」
 僕が話しかけようとすると、保険医が間にわりこんで、しっと唇に手を当てた。
「おうちで、なにかあったのかしら?」
 カーテンを再び閉めると、僕らは保健室の小さないすに二人で並んで座った。僕は質問に、
一切答える気はなかった。
 耳に何度も、あの声がよみがえるような気がしたから。
 とうとう、保険医が何も言わない僕に音を上げたのか、机の上からボードを取り出した。
「美術の時間に。例の三人組と争っていたそうね。どうやら、家族のことを侮辱されて、
彼らに暴力を振るったんですって?
あの例の転校生と、一番体格のいい男の子にけりをくらわしてやったんですって?」
 ボードの上の文字を、なでて読み上げる。
「そんなこと知りません」
「これは、あの三人組の証言だそうね。けれどあの女の子は一切何も話してないわ。」
「かのじょはなにもしていない!」
「彼らが、あなたに絡んできたのね。あなたが、彼らを殴った。」
 保険医は僕のこぶしをつかみ、まじまじとそれを見つめた。「それ、嘘な様ね。彼女の手には殴ったあとが
くっきりと残っていたけれど。」
 保険医がペンを白いボードに走らせた。
 僕は窓の外を見つめた。空が、朱色に染まり始める。窓下は上級生が野球をして遊んでいるのか、
ボールがバットにはじき返される 音が響き渡っていた。  白いボールが、窓の外に現れて消えた。アウト、という声とともに。
「それで―家庭のことを言われたのね。あなたも、弟さんもぼろぼろになっている」
 今まで切り込むようだった保険医の顔が優しくなり、ひざをついて僕を見上げるように言った。
「むりしなくて、大丈夫よ」
 なんのことか、と。
 僕は彼女に聞いていた。彼女の目は、僕の背後にうつる空の色を宿し、
いままで見た誰とも違う輝きを放っていた。
「あなたも、救い出される。…わたしにも、同じような時期があったから、わかる―」
 ちょっとだけわらう。
「そのために、あなた自身が強くならなければならないわ。せめて、
女の子にかばわれないようになれるくらいに、ね。」

 弟が余り容態が芳しくないということなので、弟の担任の先生が弟を連れて行くことになった。車で送ってあげるよ、
といわれたが、丁重にお断りした。僕の体を心配してくれているみたいだけれど。
 僕は彼女に、会いたかった。
 いつも最後まで教室に残るのが彼女だと、僕は知っていた。
 廊下をかけ、扉を開く。
 薄暗くなった教室。
 整然と並べられた机。
 誰も、いなかった。

 屋上に上がり三階から一階まで見回したが、彼女はいなかった。
 仕方なしに、靴を履きに戻る。あたり前のことだよな、とつぶやいた。
 僕が玄関を出る―すると―なぜか、そこに彼女がいた。
 何も言わずに、僕たちは二人並んで歩き出した。