「お父さんと二人で、日本中を絵を描きながら歩き回っている」
 夕暮れの公園。少し闇が迫ってきている。
 同じ年くらいの遊んでいた子達が、だんだんと家に帰っていった。
 彼女が、たったそれだけ言った。
「…いえのこと」
 それから、また少し間があった。その間に、公演の隅にあるライトにポッと灯りがともった。
 僕は、何か彼女に話したいことがある、そう思って彼女を探していたはずだったのに―こうして、並んでブランコをこいでいると、いいたい言葉はすべてせみの鳴き声に奪い去られた。
 突然、彼女が勢いをつけてたちこぎを始める。
「海が見たい。前に一度だけ、連れて行ってもらったことがあるの。綺麗だった」
 彼女の言葉は淡々としていて、なにか順序とか秩序とか、そういったものがばらばらみたいだった。
 生暖かい風が吹いて、そのことを少しだけ、淡々と喋りはじめる。そこが南だったことを彼女が告げると―僕は、そう唐突に、言葉を発していた。
「あの絵の蒼」
 少女がゆっくりとこちらを振り返る。
「それ」
 そして再び沈黙になった。
 僕は考えた―どうして、こんなところで彼女と二人でいるんだろう。家はすぐ目の前にあって、弟がまた死んだように眠っているかもしれない。
 もしかしたら、お父さんが今日は早く帰ってきて、あまり得意ではない料理を作っているかもしれない。
 あるいはあの母が―まるで、今までのことは夢だったのよ、とでも言って家に帰ってきているかもしれないのに。
 僕はひとみを閉じる―家の壁を視界から排除する。
 それこそが夢だ。
 さらに暗くなって世界は闇に染まり始めているのに、あたりの家には灯りがともりはじめた。
 甘口カレーの、匂いがどこからともなくやってくるのに。
 あの家は、未だ暗い。
 深い闇のそこに、飲み込まれてしまっているじゃないか。
 僕の言葉が形を考え始める―帰るために、弟の待つ家へ…闇のそこから―だがそのときに、ぼくがきくべきことがはっとひらめいた。
「どうして、僕を庇ったの」
 まるで、あやされた猫みたいな感情が僕を襲った。甘えていいのか、おびえていいのか、はたまた牙を向けてもいいのか―答えはでるものじゃなかった。応えは僕の足元に、まるでそこから下にあったかのような雪のように僕の上に降り注いだ。
「あなたが、私を悪く言ったことがなかったから。紙を拾ってくれたから」
 少女は特にたいしたことああったわけではない、と今までと変わらないさめた口調を保っていた。
 そう。
 言葉とともに、急速に僕の心に広がる思い―そう。それだけ。
 その言葉はまるで温泉の原水のように、僕の心を満たしてくれた。
 なぜなのか、よくはわからなかった。
 ただ、僕が弟にしているように。
 確たる理由もなく向けられた好意に―涙が、

 …くぐもった声で僕は聞く。

「お父さんが、描いた絵?」
「そう」
「君の絵、綺麗だった。君も描く?」
「うん」
「けれど、今日描いてなかった」
「もうかかない」
「え?」

「もうかかないの」

 ぐずった鼻をかいて、僕が少女の顔をのぞく。
 その目。獣が、いなくなった。カーテンの向こう側に見た、その目。
 何と同じなのか、思い出せそうな気が僕の中をかけめぐる。
…悲しい、子がいるよ…
 少女のめくれた長袖から、赤黒くなった腕が覗いていた。