薄暗い月明かりの中、子供の泣き声で目が覚めた。障子ごしに浮かびあがった、小さな影。
「お兄さま、お兄さま」
不思議に、持ち前の喘息(と言われている)が苦しくない日だった。
半身を起こして、青年は問うた。
「こんな夜中に、何をしているの」
「月を…つかまえているの」
小さな影に浮かびあがった虫取り網のようなものが、左右に揺れる。
しん…とはりつめた空気を衣擦れの音でうごめかす。
そろそろと障子をあけると、市松人形のように肩で髪を切りそろえた少女の、泣き顔があった。
「はは、そんな短い竿ではとどかないなぁ」
少女が背伸びしてもせいぜい、屋根が関の山。
「お兄さま、とれる?」
「んー、むずかしいなぁ」
青年は辺りを見回した。見慣れた日本庭園は、草木さえも眠ったように昼間とは違った雰囲気を醸しだしている。
あるいは、月光がそうさせるのか。
やけに、池の端に植えられている、赤い椿が目についた。
「おいで」
青年は少女の手を取り、下駄をうがいた。
「見事な椿だ」
その中に可憐に咲いた一輪を手折る。少女をそこに残し、青年は着物をたくしあげ、水の中に入った。
水の中は氷のように冷えた。
「風邪をひいてしまいます」
少女が止めたが、青年は穏やかな笑みを浮かべて、ずぶずぶと池の中に入っていった。
少女も、池に入ろうとしたところで、
「月なら、簡単につかまえられる」
椿の花を水に浮かべる―ちょうど池には、天頂に輝いた月が、煌々とたゆたっている。
少女は着物をたくし上げるのももどかしく、水の中に身を乗りだした。
「あまり水をさわがせないで」
青年が嗜める。
月の光をはさんで、青年と少女は向かいあった。
やがて水面が空気のかすかな動きにうちふるえるころ、青年はゆっくりと月を両手で水平にすくった。
手の中の水が逃げるまでずっとそうして、やがて月光だけが残った頃、椿の花にそれをうつした。
椿の花から、きらきらと光がもれる。
少女が輝かしい顔をして、みつめる。
「ほら、つかまえられたろう」
二人そろって軒に腰掛けた。水中に浮かんだ椿の花は、きらきらと輝いている。
少女がどうしてもほしいと駄々をこねたが、月が逃げてしまうと言ったら、しぶしぶと引き下がった。
久方ぶりに出た外の空気は夜だからか―妙にくっきりと胸を癒す。障子ごしに何度も想像した、
瑞々しい世界の中に自分がいることに、青年は大きく息をした。
「おこしてごめんなさい、お兄さま」
「いいんだよ。怖い夢を見ていたからね」
「お兄さまも、怖い夢を見るの?」
少女は心底驚いた顔をした。
「暗い穴がね、追いかけてきていたよ。そう…もうすこしで、追いつかれてしまいそうだったしね。怖かったね」
「今は、大丈夫よ」
幼き手がぎゅっと青年の手をとった。水に入ったせいか、手はとても冷たかった。
「どうして月を?」
「お医者様が…月のおくすりはどんな病もなおすと言っていたの」
「そうか…」
「ですのに、無理をさせてごめんなさい」
「ありがとう」
青年はもう片方も手でゆっくりゆっくり頭をなでてやった。心優しい妹は目に涙をためはじめたから。
人形のような髪は、やはりそれのように、さらさらとしていた。
「そういえばね、お兄さま」
「どうしたんだい?」
「お医者さまはこうも言ってらしたわ。月の光に導かれると、
安らかにお眠りになることができる、と。だからわたくし、ずっと探していたの」
「あぁ、もうねむくなってきた」
青年がぴったりと閉められた障子を見ると、障子が青白く光り輝いている。
少女の白い腕は、その光のもと、黄緑色に光っている。
青年は布団をめくりあげ、少女をいざなった。
「眠ると、また怖い夢をみそうだ」
「黒いものが、追いかけてくる夢?」
「そう―怖いのは…それに追いつかれたらと思うと、とても不安になる。そして、安堵することか」
「あんど?」
言葉の意味がわからなかったのか、少女は小首をかしげた。横になっていたので、かすかに動いただけだったが。
「そう、あの穴に堕ちたら、安らかなるものがあるような―…」
「だめ」
少女がぎゅっと、兄を抱きしめる。温かみは感じなかった。
「お兄さまはこれから怖い夢をみるのではないのです。これから、私とともに行くのでしょう?」
「行く?」
青年はだんだんと夢の中に引き込まれてきた。
「どこへ?」
「せいなる、幸せが待つところへ」
くすっと、青年が笑った。少女は真剣だったので、笑われて、ちょっと怒った。
「わたくし、真剣ですのよ。」
言葉だけはおませだ、と思った。
「…いけるかな」
「私が、連れていってさしあげますから。お兄さま」
翌朝、赤い大輪の花を咲かせて。
青年は永き眠りについていた。
椿の根から小さな骨が発見されるのは、それから暫くたってから。
実は冬コミようにかいたもの〜。
部誌に出す前に出しちゃっていいのかしら。とかおもいつつ。